日光杉並木の歴史

      2017/02/07

このページでは、400年に及ぶ日光杉並木の歴史について紹介しています。現在行われている保護活動については「保護活動」のページをご覧ください。

日光杉並木の歴史 - 江戸時代

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徳川家康

日光杉並木の歴史は、徳川家康が日光東照宮に祀られたことに始まります。1616年4月17日に家康が没すると、1617年(元和3年)日光山へ東照社が創建されました。4月17日に二代将軍秀忠により鎮座祭が行われて以後、江戸時代を通して将軍による社参が19回行われ、日光へと通じる諸街道の整備が進みました。

家康が没して8年後の1624年(寛永2年)7月、松平正綱は大加増を受け、2万2120石を領する相模国玉縄藩の初代藩主となります。正綱はこの頃から街道への植樹を開始したと考えられ、日光杉並木の350年以上の歴史が始まります。植樹開始の正確な時期については資料が残されていませんが、「大猷院実記」巻5、1624年(寛永2年)7月25日条に、「松平右衛門佐正綱に大和。三河。相模。武蔵の内にて。一万七千四百石余加恩ありて二万二千百石になされ。相模の内甘縄をもて居所たらしめる。正綱日光駅路に今年杉を植えしとぞ」との記述があります。また、1648年(慶安元年)に建てられた杉並木寄進碑にも「歴二十余年」とあることから、この頃であろうと推定されています。

植樹を完了したのは1648年(慶安元年)4月17日で、家康の33回忌でした。正綱はこの事業を後世に伝えるべく寄進碑の建立を計画し、林羅山に碑銘を依頼するなど準備を進めていましたが、完成を見ることなく同年6月22日に73歳で没しました。正綱の没後は子の正信が遺志を継ぎ、杉並木寄進碑4基を建立しました。

正綱はなぜ日光杉並木の寄進を行ったのか、そしてなぜスギを選んだのかについては、資料が残されていないため、はっきりしたことは判っていません。寄進の理由については「家康への恩に報いるため」「幕府の直轄地であった日光の範囲を示すため」、スギを選んだ理由に関しては「スギへの信仰や感じを相当考慮した結果」「もともと東照宮付近には杉が多く、日光のご神木だから」などの説が唱えられています。

経緯はどうあれ、針葉樹であり幹が真っ直ぐに伸びるという性質を備えた木であるスギが選ばれた結果、古代ギリシア・ローマの列柱廊を思わせる荘厳な並木道となりました。もしこれが狙った効果であったなら、正綱は抜群の演出家・デザイナーであったと言えるでしょう。

日光杉並木の歴史 - 幕末から近代

慶応4年に勃発した戊辰戦争では日光杉並木街道も戦場となりました。現在も残る「砲弾撃込杉」はこのときの砲弾がスギに当たり、残ったものです。

明治維新以降、日光杉並木は苦難の歴史を迎えることとなります。

日光杉並木は1869年(明治2年)の「社寺上地令」によって国有となり、1871年(明治4年)の廃藩置県によって栃木県の管理下に置かれました。1884年(明治17年)、県令の三島通庸は、会津街道の倉ヶ崎-大桑間の約2キロの屈曲部分の改修を行い、それに伴って推定約1000本のスギが伐採されてしまいました。また、1897年頃には日光杉並木のスギが道路の影になるとされ、県知事の溝部惟幾によって伐採が計画されました。幸い、実行に移される前に溝部知事が退官したため、難を逃れることが出来ました。

1899年(明治32年)4月には「国有土地森林原野下戻法」が制定されたため、翌1900年(明治33年)6月25日に東照宮は日光杉並木下げ戻しの申請を提出。5年後の1905年(明治38年)4月12日に、樹木のみが縁故払下げとなりました。これ以降、日光杉並木に生育するスギは東照宮の所有、スギの生育する土地は国有として管理されることとなります。

1915年(大正4年)から1926年にかけては、東照宮が鎮座されてから300年の記念事業として約6000本のスギの補植が行われました。

1919年(大正8年)に「史蹟名勝天然紀念物保存法」が公布されて、史跡の保存制度が確立されると、1921年(大正10年)5月には内務省史蹟考証官の一行が日光杉並木街道の実査を開始しました。その結果、1922年(大正11年)3月8日付けで「日光並木街道 附 並木寄進碑」として史蹟に指定され、日光杉並木は内務省の所管として国の保護と管理下に置かれることになります。現状の変更に際しては国の許可が必要となり、直接の管理代行は栃木県が担当しました。1929年(昭和4年)からは所管が内務省から文部省へと移されました。

これ以降、文化財として保護されることとなった日光杉並木ですが、戦争の影が襲いかかります。

1943年(昭和18年)には大政翼賛会が中心となって全国で「軍需造船供木運動」が行われました。これは艦船を造るための木材を全国から集める運動で、有名な「金属供出」の木材版です。日光杉並木も供木運動に巻き込まれ、大政翼賛会今市壮年団が、県と東照宮に対して全木伐採の陳情を行うなど、日光杉並木は植樹以来最大の危機に直面しました。

しかし、県知事の桜井安右衛門は伐採に反対しました。「国宝級の文化財に対し、非常時の名の下に斧鍼を加える如きは、悔いを千載に残す結果を招く」と考え、大政翼賛会の組織局長からの供木依頼に対して「そんなに木を伐りたいならば、まず、知事の首を切ったらどうですか」と答えたといいます。

また、内務省神祇院と文部省も関係機関に対して「社寺境内林、史蹟などについては、尊厳保持と風致景観に影響を与えないように」と通達し、同様に伐採反対の立場を取りました。特に神祇院では、副総裁の飯沼一省と技師の田阪美徳が協議し、「並木の伐採は一連の供木伐採の終期に行うこと」など伐採の3つの条件を東照宮に示しました。日光杉並木の伐採は可能な限り後回しにすべきだ、という意図が感じられます。

その後、史跡名勝天然記念物調査会委員の本田正次や史跡考證官の黒板昌夫らによる数度の現地視察を経て、36本の伐採が決まってしまいました。しかしながら、終戦までの間、実際に伐採・供木されたのは2本に留まりました。日光杉並木が供木運動の影響を最小限に抑えられた影には、日光東照宮や栃木県職員、今市町長の高橋弥次右衛門など、多くの関係者の努力があったといいます。

日光杉並木の歴史 - 戦後

多くの人の尽力によって戦禍を乗り切った日光杉並木ですが、戦後も決して平坦な道ではありませんでした。開発やモータリゼーションという時代の荒波が襲いかかったのです。

1949年8月31日、関東地方をキティ台風が直撃、激しい暴風雨によって日光杉並木の大木が倒れ、押しつぶされた家屋で少年が犠牲になりました。

その後、町内会で再発防止策が協議され、地蔵尊前に位置する日光杉並木を伐採と、地続きの杉並木の枝払いを提案します。しかし、日光東照宮が日光杉並木の伐採に難色を示したため、地蔵尊前の杉の上から三分の一を切り、例幣使街道と御成街道の杉並木の枝を切り落とすことで決着しました。これが「杉並木枝下ろし事件」です。この事件は日光杉並木街道に対する住民意識の一面を象徴する事件であり、その後の都市計画などに尾を引くことになりました。

その後、東照宮では1950年(昭和25年)4月1日付けで、辻善之助を委員長に迎え、本田正次、鈴木丙馬をはじめ、地元官民代表者を加えて「日光杉並木街道保存委員会」を発足させました。日光杉並木の保護についてを審議し、結論の実行について文化財保存委員会をはじめ、関連官庁に具申するとともに、東照宮が行う日光杉並木の保護の実施にも生かされました。

1952年(昭和27年)3月29日付けで「特別史跡 日光並木街道」として今までの史蹟から格上げされました。同じ日に「日光街道管理委員会」が発足。主として道路管理の立場から日光杉並木街道の管理に付いての審議にあたりました。

1954年(昭和29年)3月29日付けで「日光杉並木街道」と名称変更が行われるとともに天然記念物の指定を受けました。同年11月20日には文化財保護委員会の専門部会で「特別天然記念物」の指定が議決され、1956年(昭和31年)10月31日付けで特別天然記念物に格上げ指定を受けました。これ以降、日光杉並木は特別史跡と特別天然記念物の双方の指定を受けていますが、二重指定を受けているのは、現在に至るまで日光杉並木が全国で唯一の例であり、日光杉並木のかけがえのない価値を示しています。

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